俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

ハンギョドンの人形

UFOキャッチャーをギャンブルと言っていいのか。UFOキャッチャーは子どものゲーム、ギャンブルっていうのは大人の遊戯、と私の中の誰かが言っているのですが。何が言いたいかというと、UFOキャッチャーをギャンブルとここではさせていただきたい、ということです。

 

そのUFOキャッチャーを私はしばらくやっていなかったのです。理由はとにかくお金がもったいないから。あの可愛らしい人形がディスプレイされている箱は、私のお金をどんどん吸い上げるのです。これまでけっこうな額をつっこんでしまっています。しかし、ごく手軽な金額で人形をゲットできた瞬間に脳内を駆ける快感は、ギャンブルのそれと同じだと、本能的にわかります。

 

景品など取るつもりがなくても、何が置いてあるのか見に行くだけと心に決めても、ゲームセンターに足を運んだら最後なんですね。そういうわけで私は昨夜ふらふらと性懲りもなくゲームセンターに赴いてしまいました。

 

そこにはハンギョドンの立派な人形が置いてありました。ハンギョドンというのはサンリオの人気キャラクターなんですが、私はすでに五体のハンギョドンを所有しているハンギョドンファンの一人なのです。捕りたい。とりあえず千円だけ。賭けてみるか。

 

結果的に私はそのハンギョドンを800円で捕りました。これは成功なのかどうか。成功です。なかなかの成績です。三桁で捕れたら、万々歳です。

 

これがUFOキャッチャーの怖さです。なんなんでしょうね。一度成功体験を積むと抜けられなくなるその思考回路。人間に備わったギャンブルに対する欲求。勝ったときに脳内で炸裂する快楽物質。人間の構造もそうですが、それらを刺激することで成り立っている商売。いい悪いではなく、不思議だなあ、うまくできているなあ、と思います。

 

でもそういうところに怖さを感じることができているので、そこは節度を持って楽しまなければなあと。それと本格的?ギャンブルにハマらないための社会勉強になっているとしたらそこは棚牡丹かなと前向きに捉えることもできます。

 

ハンギョドンがあるとついついやっちゃうんですが、それはなんかまた仕方ないなと割り切っています。だって欲しいんですから。

 

宙ぶらりん

過去とか思い出とか、楽しかったあの頃を割り切る。そういうことができたらいいのに。

 

やはり楽しかった。なのに道を外して今がある。ちょっと外れただけで分岐していく未来。確定していく過去。その過去に思いを馳せ、悔恨の思いを抱えて生きる。抱えきれず、変わりもしない過去をああでもないこうでもないとこねくり回す。なんの意味もないことなのに。

 

そしてまたあの楽しかった頃を呼び戻そうと何かに祈る。祈祷師ばりに祈りを捧げる。神も仏も見境もなく。おばけにだって祈る。

 

人間は寂しいから存在している。そんな話を聞いた。そうだよな、体があれば人と触れ合えるもんなあ。素晴らしいことだけど、私の人生は寂しかった。だからこそ、過去に執着している。現在を生きられない。昔から心ここにあらず、上の空。そういう生き方にこそ後悔が宿る。でも……。

 

わがままに生きることは私にはできない。またそれでもいいと受け入れることもできない。宙ぶらりんの工場労働者。毎日上の空で粉を混ぜている。なんでこんなことしてるんだろうと思うこともある。でも必要なことということもわかっている。

 

理想と現実がごちゃごちゃに混ざり合って煩わしい。でもその仕事が与えてくれた現在を、いろいろな人達に感謝しながら生きていきたい。

15,000円の散財

ここ一ヶ月で計15,000円の散財をしてしまいました。

内訳はこうです。

携帯ショップでスマホカバーを購入しました。二種類しかなく、長く使えるようにと5,000円の高級な方を選びました。家に帰ってさっそくスマホに取り付けると、ガッシリしているというか、でかいんです。片手で持ちづらい。スマホは特段大きくないのに、その手帳型カバーの横幅が出過ぎていて、スマホの操作がしづらい。あ、失敗した、と思いました。Amazonで探したら種類が豊富なこと。そして安い。結局1,300円の手帳型カバーを購入しましたが、そちらはなんの不便もなく使えます。5,000円のカバーは悔しいですが一日しか使用せず箱に戻しました。

 

次です。

購入してまだ間もない5000円のZIPPOライターを気に入って使っていました。車を運転中にポケットから落ちたんです。運転席ドア側の座席の隙間に落ちたのは推測できました。あとで探したのですがどこにも見つからないのです。不思議なくらい見つからないので私は怪奇現象と捉え納得するしかなかったです。この先ポロッと出てくる可能性もありますがこれで5,000円の損失です。

 

最後です。

自室の模様替えをしました。カーテンを替えようと思い、ホームセンターへ行きました。ダークグレーが良かったのですがライトグレーしかなく、妥協してそれにしました。10,000円でした。帰ってきて取り付けて、一息ついてAmazonを見ました。ちゃんとあるんです。ダークグレーが、それも5,000円で。流石に諦めましたが。5,000円で購入できたものを10,000円で購入してきてしまいました。差額の5,000円を損した気持ちです。

 

いまいちネット通販というものを信用しきれていない部分があるのですが、もう少し賢く買い物できないものかと、反省しています。今回は額が大きくなってしまい、自分の間抜けさに嫌気が差します。加えて高いライターを紛失する始末。これが私の、合わせて15,000円の散財です。

 

 

非情できまぐれな運命

一生知るすべもない知りえないもの。知ったとしてどうなる。ただ、私の知識の肥やしになるだけだ。

 

その私の知りたいことをどうでもいいとしてしまうのは私の強がりなのだ。知っとけばよかったのだろうか。いや、そのことを後悔するよりももっと大きな後悔を抱えているのだから、やはりそんなこと、小さいことなのだ。

 

ただ、その私の今後の人生で知りえないもの、そのなかにいろんなものが詰まっている気がしてならない。ただの一情報がなぜか光って見える。それを知っていたとして、ただの自己満足に過ぎず、現状が変わることもない。そんなものにどうしても心がひかれる。

 

それはまるで宇宙の真理に似ている。いや、どう考えても言い過ぎだ。でも、確かにあるのに、絶対に知りえないという点において、大小あるものの、私にとっては似ているといえる。

 

ああ、それを言ったら、あれも知りたいこれも知りたい、となってくる。とんでもない煩悩なのだ。煩悩は苦しみの原因であるとはよく言ったもので、確かに苦しい。知りえないという苦しみ。しかし、その煩悩がもし無くなったら、私は私であると言えるだろうか。苦しい道を選ぶ。苦しんだ先に苦しみしかないのに。苦しむために苦しむ。でもこれは人間である限り不可抗力だ、と思う。

 

私が生まれていなければあなたは生まれていない、もしくは、あなたが生まれていなければ私は生まれていない。もしそうだとすれば、この世の中、とんでもない数の奇跡であふれているのだ。毎日、粉を計り、粉を撹拌していると、そういう話が本当のような気がしてくる。奇跡とか運命とかそういうものが実際は一挙手一投足に起こっていて、人生が思いもよらぬ方向に、だれも予測できない方向に、転がっていく。どんどん確定していく運命とこれから訪れる予測不能の運命。そういう非情できまぐれな運命にどうして祈らずにいられようか。

高みを目指す陸上選手を見て思ったこと

今、世界陸上が開催されているからか、最近陸上競技の動画をよく目にします。

 

陸上競技の世界だけではないですが、新しい記録というのは、どんどん更新されていきます。もう抜かれることはないだろうというとんでもない記録が、数年後にあっさりと抜かれてしまう。100mの記録なんてもう縮めようがないと思うんですが、おそらくまた新しく塗り替えられるのでしょうね。

 

人間というのは、本当によく高みを目指します。陸上だけでなく、ビジネスの世界でも便利で画期的な発明がなされたり、より高品質な製品が生まれたり、とどまることを知りません。それはそこで働いている人々が常に高みを目指しているからに他なりません。

 

そういう高いレベルの話だけではないんです。人間誰しもが高みを何かしらの形で目指しています。焼肉の食べ放題に行ってどれだけ食べられるかに挑んだり、毎日の髪のセットでいかにきめられるかに神経を注いだり、より多くの汗をかくためにいかに長くお風呂に浸かれるかに挑戦したり。ほんとに些細な高みを見つけてはそれを乗り越えようと奮闘します。

 

日常生活の小さなところからさえ人間は限界のその先を目指しています。そういう人間の大小ある営みの結晶が今の社会を作っているのかもしれません。ほかの動物にはない、人間だけがもつ特徴のような気がします、わかりませんが(笑)

 

あの陸上大会に出場する選手全員がそれぞれの記録を目指して持てる最大限の力を発揮しようとします。陸上選手のそういう姿を、実生活の私に落としてちょっと考えてみました。自分を含めた誰しもが高みを目指して生活しているんだなあと、ふと考えてしまったのです。焼肉だろうと髪のセットだろうと入浴だろうと、それぞれの目指す高みがまわりまわって私たちの生活の発展につながっている、そんな気がします。

走り幅跳びのイラスト

 

 

人生はまるでゲームのよう

自分から見えないものはやはり存在しないのと一緒なのかもしれない。自分が目で見て、認識して初めてそれは存在していると言えるのかもしれない。

 

私の知らないところで誰かが悪口を言っていたとしても、それは私の耳に入ってこない限り存在しないのです。まるでRPGゲームの主人公みたいだ、と思うのです。イベントに出くわして初めてその問題と向き合わなければなりません。そのイベントに出くわすことなくスルーしてしまえば、無いも同然なのです。

 

ですが、そんな何かに達観したかのようなことを考えていても、現実は残酷です。上に書いてあることの逆を言えば、知らないところで物語はどんどん進んでいるのです。波に乗り遅れるとか言いますが、私の知らないところで話は進んでいる。そして私の耳に入ってきたときには、ただただ驚愕し落胆するしかないのです。

 

知りえないものは知りえない。その事実がつらい。この世の中は物質世界なので、行きたいところへ行くには足を使わなければいけない。壁があったら見えないし、距離があれば何も聞こえない。私はぽつんと取り残され、みんなはみんなで幸せな人生を歩んでいる。疎外感を感じる。

 

先ほども言ったように目に見えないものは存在しない、少なくとも私の人生には存在しないのですが、通りすがりにふとすれ違うと、ああやはり存在しているではないか、と心を乱されるのです。そして物語を知るすべもないことに肩を落とすのです。

 

人生のゲーム性に私は一喜一憂している。知らなかったこと、思いもしなかったことが私の身に降りかかる。それは吉の時もあれば凶の時もある。そのゲーム性。結果など自分では到底コントロールできない。一寸先も見えない。この先私は私のミッションをクリアしているのだろうか。

手に入れたくても手に入らない

私はどうも無謀なことをしているのです。

 

無謀であることが受け入れられないのです。

 

それはまるで、好きな人を諦められないストーカーさながら。

 

そしてそんなことをつぶやく私の脳裏に浮かぶのは、諦めなければ夢は叶う、というどこかのスポーツ選手が言いそうな格言。

 

違うだろ、それはスポーツとかビジネスの話ね。

 

と、私は私に言い聞かせます。

 

そんなことが言いたいのではないのです。

 

私は無謀なことを現実にしようと願い、それでも無謀なことに落胆しているのです。

 

だからなんです。最近、占いとかパワーストーンとかそういうものに心を惹かれるのは。

 

ひょっとしたら。というその何パーセントかわからない可能性、自分ではもう手に届かないような少ない可能性を叶えてくれるのは、目に見えない不思議な力なのです。なのですというか、叶えてくれるのではないかという期待を持っています。

 

お金が欲しい。いい暮らしがしたい。あれが食べたい。これ食べたい。そんな強欲が私を苦しめます。手に入れたいのですが手に入るわけがない。

 

わかっているから、見えないものに思いを馳せるのです。

 

何も変えることができない、自分の力不足を嘆くほかないのです。