霧中暗中ブログ

夢も希望もない三十代の日記です

休みの日の憂鬱

 休日をどう過ごすか。この課題は私の中でかなり軽視されている。休日を迎えるたびに自分の部屋にこもってだらだらと過ごしていていいものなのか。仕事が嫌いなら休日くらい充実させた方が良いものだとは感じている。

 休みの前の日は、なかなか寝付けない。もしくは寝ない。午前3時近くまで起きている。アマプラでアニメを見たり、スマホをいじっている。寝るのがもったいないと感じる。そして結局休日当日、起きるのがお昼を回ったころになる。仕事の日だったら今頃お昼休憩なんだよなあ、とか、あと2時間働いたら終わってる時間なんだよなあ、などと考えても仕方のないことを考えて落ち込む。二度寝などするのでひどい時は4時ころまで寝ている。結局、休日のほとんどを寝て過ごすことになる。

 そして、休日を心から満喫できない。明日は仕事だ、嫌だな、などと考え込んで心から休むことができない。何もしなくていいという大事な時間を大切に過ごしたいと考えて消極的になる。例えば、友人とどこかへ出かけて帰ってくれば、午後6時になっている。本を読んでいれば、読み終わったころには休日という時間が減っている。この感覚はなんだろう。どうすればうまく伝わるだろうか。私にとって休日に何かをするというのは、休日の貴重な時間を浪費することなのかもしれない。ただただ、仕事が近づいてくることに怯えている。

 何をしても、何をしなくても、休日はあっという間に終わってしまうのだ。私の場合、考えすぎて行動ができない。明日は休日だ。仕事が嫌いである以上、最高に気持ちのいい休日などないのだ。ここは割り切って休日を過ごすしかない。

日記をつけることに安定剤としての役割はあるか

 大学2年から4年にかけて日記を書いていた。はじめはその日一日の行動や出来事などを記録するつもりで始めた。それがだんだんと、自分の悩みや考えていることなどを記録するようになっていった。

 日記をつけることはいいことなのだろうか。その人にとってプラスになるだろうか。私の場合、悩み事の根幹は何も解決しなかった。それどころか、考えなくてもいい事まで考えて傷口をいたずらに広げてしまった可能性がある。何も解決しなかったから、あるいはマイナスに働いたから、今の私がいる。そんなことは机上の空論で、何も意味をなさないが、日記を書いていなければ今の私はどうなっていたかについて、考えずにはいられない。

 その後、しばらく日記をつけていなかった。公務員になった26歳の時に再び日記をつけるようになった。どうすれば悩みが解決するだろうかという試みではなく、ただ単に日記を書くことが心の安定剤になるようだった。公務員時代は地獄だったが、日記を書くと幾分心が安らぐようだった。焼け石に水ではあったが。その日記は今も続けている。

 大学時代の日記も社会人になってからの日記も記録として残っている。いつでもすぐに読み返すことができる。読み返したところでどうなるわけでもないが、機能としてはアルバムと似ている。アルバムがその時の自分の外見や、風景を記録しているように、日記にはその時の考え方や感情が記録されている。私の場合、基本つらい時にしか日記をつけないので、情報が偏ってはいるが。なんてことはない、日記を読み返して、あんなことやこんなことがあったなと思い出にふけるのみだ。

 普段あまり「日記をつけよう」という言葉を耳にしない。日記をつけるという行為は科学的には多分あまり意味の無い事なのかもしれない。ただ私にとって精神安定剤のような効果があるような気がしてならない。日々の不満や鬱憤を包み隠さずぶつけることで憂さ晴らしになっているのかもしれない。あるいは、アンニュイな雰囲気に浸って自分に陶酔することができるのかもしれない。いずれにせよ、私にとって日記というのは溜まったものを吐き出すはけ口の役割を果たしている。

 仕事中、つらくなると日記に逃げたくなる。これからも日記にはお世話になりそうだ。

やりたいことがあるわけではないが、やりたいことを仕事にしたい

 TikTokを見ていた。とある投稿者に質問で「なかなか内定が貰えない、前向きになるアドバイスがほしい」と来ていた。その投稿者は質問に対し、「あなたのやりたいことと企業のやりたいことがマッチしていない、あなたのやりたいことが実現できる会社を見極めていけばいいのではないか」と返していた。

 なるほどと思った。みんな学生の時にやりたいことを見つけてそれが実現できる会社を選んで入社しているんだ、そう思った。もちろんみんながみんなやりたい仕事をしているわけではないのは理解している。ただ、そういうふうに理想的に仕事を自分のものにしている人がいっぱいいるんだよな、という点でなるほどなと思った。というのも、学生時代、やりたいことなんてなかった。なんとなく公務員になれたらいいな、程度のもの。理由は楽そうだし、安定しているとかそんな感じだった。そういう感じだから、このTikTokの投稿者のアドバイスが新しく聞こえて納得してしまったのだ。

 私はいま、当然、やりたいことを仕事にできていない。というより、やりたい事など無い。子供の頃から一貫してない。

 私の想像するやりたいことを仕事にする人は、なんとなく理系のイメージ。大学で興味関心のあることを研究し、そしてその研究をさらに深堀し、追求できる会社に就職して、企業の万全のバックアップのもと様々な成果を上げている。そんな人を勝手に想像する。そんな人はほんの一握りだろう。ただし、理想だろう。そんな働き方が出来たらいい。

 やりたくない仕事を嫌々やっている今現在の私は、まるで働かされているようだ。決められた時間に体を起こして出社して、決められている時間まで働く。生活のため、という意義も感じていないため、結局、自分のために働いている感じがしない。なんのため?これは難しい問題だ。お金のため、世間体のため、社会とつながっているため、国のため、生きるため。

 別にいい。わからなくて、今はまだいい。わからなくても、働けないわけではない。なんとなく、社会の常識に従って、とりあえず働くことはできる。ただ、その状態で精神的に生き生きと働くことは難しい。取り敢えず、ああだこうだとこねくり回さず、今までやってきたように働いていればいいのだ。

 やりたいことを仕事にできている人がうらやましい。今に始まったことではないが、そんなことをTikTokのその投稿を見て、感じずにはいられなかった。いつかやりたいことが見つかって、それを仕事にすることができるだろうか。それが全てではないのだけれど。

今日という日が終わるかどうか不安な時にとる行動

  いつも仕事のある朝を迎えると、本当に今日という日は終わるのだろうかと疑ってしまう。終わらなかった日など無いし、もちろん一日は必ず終わるのだが、朝になると毎回疑念を抱く。終わらないだろうと思いながら仕事に取り掛かりその日の仕事が終わって安堵する。そんな繰り返しを何年続けてきたかわからない。そろそろ確信めいたものを持ってもいいのだが、朝の一番だるい時は自信が持てない。過去に撮った画像やら知り合いとのラインやらを眺めてあれからもう何日も経っているということを確認しないと気持ちが保てない。そういうのを眺めていると、時間の早さを認識できる。今日もあっという間に終わるさ、そう自分に言い聞かせる。

 日記も写真もメッセージも見返せば、あれだけ苦しかった日々が遠い過去になっている。あっという間に時が過ぎることの証明のような気がする。あの頃の気持ちがすでに過去になっていることを確認できる。そのデータに付随した記憶を思い返すと、つらい事なんてあっという間に過去になってくれるって思えて気が紛れる。

 私は朝と昼休憩の時は必ず喫煙所に行くが、そこでのルーティンは今日という日はあっという間に終わるということを画像やラインで確認することだ。そうやってとにかく気を紛らわしていないと一日一日を乗り越える自信がない。なんとも情けない労働者だ。

 今の職に就いて3年半。入って4ケ月目に辞めたいと音をあげた。運がいいのか会社がいいのか、今までなんとか続けてこれた。これからも続けていこうなどという気概はない。どうか今日一日が無事終わりますようにと祈りながら毎日の仕事をこなしている。

仕事がしんどかった時に苦し紛れにしていた対処法

 だいたい一日の中で一番気持ちがしんどいのは朝だ。また今日が始まってしまった。自分の意思ではなく、時間に動かされるように機械的に体を仕事に向かわせる。仕事場に向かう前に逃げ出してやろうかと本気で思う日もある。それでも仕事へと向かう。まるで奴隷になった気分だ。

 しんどい時どうすればいいのか。一つだけ自分には対処法がある。公務員時代は地獄だった。毎日パソコンに向かって作業するのだが、その時間が永遠にも感じた。その時、編み出した苦肉の策がある。例えば8時出勤の時は17時が定時になる。9時になると、始業から1時間我慢したことになる。その1時間の我慢をもう一回すると10時になる。ここまではまだ地獄。しかし、13時まで働けば5時間我慢したことになる。そこから定時まであと4時間。我慢した5時間より少ない4時間の我慢で帰ることができる。そしてここからブーストがかかる。16時まで働けば8時間の我慢。定時まであと1時間。たった8分の1の我慢で帰れる。終業に近づけば近づくほど、我慢した時間に比べてこれから我慢しなければいけない時間が少なくなっていく。

 最近、またやりだすようなった。気を紛らわすほどの効果でしかないが、時間が経てば経つほど効果が大きくなり気持ちが楽になる。我慢すれば我慢するほど楽になる考え方だと思う。脳科学的にどうとか、心理学的にどうとかよくわからないけど、痛みを少なくするための行為だから別に悪い事ではないのではないだろうか。なんでもいい、早く帰りたい。

仕事のできない男から見たリーダー達について

 仕事をしていく中で、必ずグループをまとめるリーダーがいる。そういう人たちを見ているといつも辟易させられる。

 彼らは、いつも目に力がこもっている。彼らは私の何倍もの責任や重圧を背負って働いている。違う人種を見ているようだ。いつも私は、これが働く男かと言ったのんきな感慨にふける。周りに目を配り、気を配り、ミスはなく、仕事が早く、コミュニケーションを円滑にこなす。見えないところでは上司に頭を下げているのだろう、部下には時に厳しく、時に優しく、指導なり指示をしなければならない。いつも思うのだ、なぜ彼らはそこまで必死になって死にもの狂いで働いているのだろうか。

 私は彼らとは一生分かり合えないと諦めている。考え方がまるっきり違うのだろう。たやすくなぜそこまでして働くのかとは聞けないため、いまだにわからない。何が原動力となってあそこまでの仕事ぶりを発揮することができるのか。

 戸惑う。同じ目的に向かって働いている仕事仲間であるはずが、気持ちの方向が全然違うのだから。立ち位置の問題ではある。ただ私は彼らの立ち位置にはいけない。能力的にいけないのはもちろんだが、気持ちの面で私はあそこには立てない。私がぼけっと仕事以外の事を延々考えながら仕事をしているのに、彼らは仕事と真正面から向き合っている。気持ちの入り方が全然違うのだ。彼らと自分を比べていつも戸惑う。

 私はつらい思いをしたくない。できれば何も考えたくない。ストレスから遠い場所にいたい。生きていくために、どうしてこんなに頑張らなければならないのだろうと、不満を持っている。仕事を義務に感じている。一体どうして私はこんなに軟弱になってしまったのか。

 明日も仕事、ミスの無い迅速な仕事をして、リーダーに褒められるような仕事がしたい。

コンビニの店員さんに違う銘柄を勧められた

  私はかれこれ6年くらいメビウスのオプションパープルを吸っている。なぜこの銘柄を吸うようになったのか全然覚えていない。吸い口のところにカプセルが入っていて歯でカチッとつぶすとなにかのフレーバーの風味を味わうことができる。おそらくパープルというくらいだから、ブルーベリーのフレーバーなのかもしれない。パープルのほかにレッドやイエローもあるのだがなんとなくパープルが気に入って吸い始めたのだろう。

 今日、仕事帰りに寄るコンビニで煙草を買い求めた。いつものオプションパープル。すると顔見知りの店員さんにこっちの方が安いですよと違う銘柄の煙草を勧められた。それはケントのエスシリーズというやつでメビウスよりも60円安い。最初はいやいやそれはない、と思ったのだが、よくよく考えると60円はでかい。

 煙草は年々値上がりしていて、私は500円を超えたらもう煙草は辞めると、豪語していた。490円まで来たとき、私はまさに崖っぷちに立たされた。でも500円になったら辞める、というより辞めざるを得ないだろう、と考えていた。私は一日一箱吸うのだが、もはや高級品となった煙草は私の家計を圧迫している。なにより、健康に悪い。高い金を払って自分の健康を害する。馬鹿な話だ。

 メビウスが500円を超えた時、実際私は、煙草を買うのを辞めた。しかし吸うのを辞めたわけではなかった。会社の喫煙所に手ぶらで立ち寄っては仲間からもらい煙草した。これはやめるための助走期間だ、自分にそう言い聞かせた。そんなことをしばらく続けていたが、さすがにみんなに悪いなと心苦しくなってきた当たりで心が折れた。ワンコインを超えたろうが何だろうが購入を再開しようと。それで今にいたる。

 結局、店員さんがお勧めしてきたそのケントを買った。「いい機会なんでちょっと試してみますね」「感想聞かせてください」などと言い交わして。煙草の味など大してわからない。要するに慣れだと思う。今まで吸っている煙草の方が安心するからわざわざ銘柄を指定するわけで、新しい方に慣れてしまえばそっちの煙草の方がお気に入りになるのだ。

 今の気持ちで言うと、半々。今まで通りメビウスを吸うか、心機一転、ケントを吸うか。ケントに慣れてしまえば、週420円浮くことになる。でかい気がする。検討する価値はあるように感じる。