俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

未知の世界に想像力を膨らます

私が想像を掻き立てられるものの話をする。

 

例えば、とある1枚の写真。そこにはニッコリと微笑む少女が写っている。日付が正しければ1994年5月25日に撮られたものである。私が思いを巡らせるのは、その写真が撮られたその瞬間、私は一体どこで何をしていただろうか、ということである。確かにその時私はこの世に存在しどこかで何かをしていたはずだ。テレビを見ていたかもしれないし、友達と遊んでいたかもしれない。笑っていたか泣いていたか。あれこれと想像はできるが、雲を掴むような感覚に陥る。この少女がカメラの前で笑っていたその日その時の私を想像せずにはいられないが、特定することは到底できない。

 

あるいは私の吐き出した煙草の煙はどこまで飛んでいくだろうか、ということ。私の吐き出した煙を遠いどこかの誰が吸っているだろうと、想像する。きっとこの煙は拡散し、大気と混ざり、ごくごく微量に希釈され、誰かに届く。考えてみるだけでなんとも言えない気持ちになる。「クレオパトラのワイン」という話をラジオかなにかで聞いたことがある。大昔クレオパトラの飲んだワインの水分子が川を下り雲となり雨となり世界中に均等に拡散したとすると、我々がただいま飲もうとしているその水の中に、クレオパトラが飲んだワインの水分子が必ず含まれているという話だ。

 

先祖の話にしても、誰が誰と繋がってるかなんてわからない。たまたま通りかかった知らない人が実は割と近いところに共通の先祖を持ってたりするかもしれない。会社や学校の知り合いの中に、知らず知らずに親戚がいたりするかもしれないのだ。でもせいぜい曾祖父母くらいまでしか遡らない。仮に自分と血縁関係のある人を全てリストアップしてくれるAIなんかがあったとしたら、どんなに面白いだろうか。この人とこんなところで繋がってたのかと知ることができたらそれは面白いことだ。しかし、調べようも確かめようもない。想像することしかできない。

 

そして会社の床に落ちている髪の毛。あれも想像を掻き立てる。誰のものか調べようがないじゃないか。それはもはや誰の髪の毛でもないのだ。だけど確かに、ある誰かが落としたものなのである。じゃあ誰が落としたのか。想像は膨らむがわかりはしない。堂々巡りである。

 

そういう目に見えないもの、確かめようのないものを、私は想像せずにはいられない。目には見えないが確かに存在する。確実にあるのに、それがなんなのかはっきりとしない。想像は膨らむばかりでとらえ切れない。壁の向こう側に確実に人がいるのにその人が何をしているのかわからない。そんなもどかしさ、歯がゆさ。宇宙はいつ始まったのか。始まる前は何があったのか。宇宙人はいるのかいないのか。卵が先か鶏が先か。徳川埋蔵金はどこに眠っているのか。話が脱線しだしたが、解決できないことは想像するしかない。解決したければ、祈るしかないのだ。

 

 

 

 

欲深い人間の葛藤

欲しくても欲しくても手に入らないもの。

このまま一生手に入らないもの。

こんなにも幸せな人生だから、きっといつか手に入ると錯覚してしまうのだ。

お金がないとか容姿が足らないとか、人生にはどうにもならないことが多い。

 

人間は、というか私は、生かされていると最近つくづく思う。戦争だ、災害だ、と普通の生活を送れない人たちがいると、日々のネットの情報で知らされる。欲しいものが手に入らないどころか、ごく普通のごく一般的な生活がままなはない。一方私は、水道水がちゃんと家まで届く、電気が使える、お風呂に入ることが出来る。ここだけ考えても、その日常を送っているのではなく、送らさせてもらっている、と感じる。

 

私はじゃあ贅沢だ。生き物だから欲深くて当然なのかもしれない。あれが手に入ったら、次はこれ。手に入れたい。手に入らないことに煩悶する。どうすれば、欲を満たせるのか。欲を満たせない状態に苦しむ。どんな暮らしをしても満たせないものは満たせない。

 

あるユーチューバーが、要領の悪い人は「定数」を動かそうと頑張る、と紹介していた。「定数」とは過去や運命などの変えようにも変えられないもののこと。できる人は「変数」、変えられることをどう変えていくかを考えられる人だそう。

 

前回紹介した「ニーバーの祈り」に通じていると感じた。変えられないものを受け入れる冷静さ、変えられるものを変える勇気、それらを見分けることが出来る賢さを私にください、という言葉だ。ここでいう、「変えられないもの」こそ「定数」であり、「変えられるもの」こそ「変数」である。

 

私は過去を後悔することが、日課であり、趣味であり、人生そのものになっている。それは決して楽しくはない。しかしやめられない。楽しくもないそれをやめられず依存しているというのがどういう原理なのかは私にはわからない。でも、最近ようやく、後悔することが人生においてメリットがないということに気づき始めた。日々のちょっとした考え方、行動が、まわりまわって人生となっていく、という事実も含め、後悔する、という生活習慣をやめなくてはならない。損得勘定にはなるが、損を取ることはないだろう。

 

では、なぜ私はこの後悔を引きずらなければならないのか。なぜ手に入らなかったものに固執するのか。人間の欲深さは汚いイメージがあるが、そういうところなのだ。悪魔に唆されている、と昔の人が考えるのも頷ける。頭で理解していても、抗えない。論理では、抑えられない。

 

「じゃあこれからどうするか」、「どう変えていこうか」、という思考をすることが人生においてプラスになる、ということをやはり理解する必要があるのだ。私は、人の悪口や陰口を滅多やたらに言わない人を見ると、それがこの人にとってプラスになるということをどこで学んだんだろう、とつくづく考えさせられる。親が教えてくれたのか、過去に経験を積んだのか、それはわからないがいつも感心してしまう。こういう人は、何が得で何が損かを理解している。「理解する」には実際に行動してみて「あ、本当だった」という経験をしなくてはならない。では理解できるまでやはり辛抱しなくてはならないだろう。

新年の抱負:感情に流されず考える力をつける

明けましておめでとうございます。

 

新しい年を迎え、今年こそはしっかりやるぞ、と意気込むのは毎年のことです。私には完璧主義というあまりよろしくない性癖があります。私の完璧主義は、がっ!となってぽいっです。一気にやる気に火がついて完璧にこなそうと試みますが、ほんの小さなほころびを見つけた瞬間、気力を失い、すべてを放棄します。

 

衝動と論理的思考のバランスが取れていないのだと感じます。衝動というのは人間を動かすのに大きな力を発揮しますが、持続性があまりありません。論理的思考はその性質上、人間をこつこつ計画的に動かしてくれます。また衝動のような大きな反動は少ないと思います。論理的思考に裏付けされた自身の行動は自分を裏切ることが少ないのです。

 

私の場合、この衝動による行動が多いのです。完璧主義もその一つ。完璧になんかこなせるわけがないと、論理的に考えれば思いつくはずですが、衝動というのは要するに欲求からくるもので、聞き分けがないのです。欲望だとか欲求というのは捨て去ることはできません。常に理性との葛藤にあります。

 

感情的になりやすい私はまた、暴言をよく独り言ちます。「きもい」とか「しね」というのは私が何かを思い返した時に自分自身によく掛ける言葉です。その言葉は衝動的に出るものでまったく論理的ではないのです。感情的な言葉というのは、気持ちがいいです。欲望から来てるものなので、口から発すると快感があります。性的な快感と似ているのではないでしょうか。

 

こういう感情的な言葉ばかり発している人は口論ができません。いつもものごとを論理的に突き詰めて言動している人の足元におよびません。勝ち負けの話をするならば、考える人に勝てるわけがないのです。感情的な言葉を発して、なんでそんな悪意のこもったことを言うのか問われても、正当性がまったく保てません。

 

今年は感情にばかり流されず、まずその感情はなぜ起こったのか、本当にその感情は必要なのか、他に考え方はないのか、そういう考える力をつけたいです。

 

今年もよろしくお願いします。

 

 

ニーバーの祈りと変化への勇気

自己肯定感の低さは承認欲求の強さに表れます。

自分のことが嫌いな私は、私のことが一番かわいいのです。

自分のことを嫌っていると、その分周りに評価されたいと思うのは当たり前のことです。

そういう関係で、「自分が嫌い」と「自分が好き」は表裏一体なのです。

 

私はあるきっかけで「ニーバーの祈り」に出会いました。ここには自己肯定感の低い人が勘違いしていて、今一度確認しなければならないことが書いてあります。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。

変えるべきものを変える勇気を、

そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ニーバーの祈」(2023年12月20日(水)21:23 UTCの版)『ウィキペディア日本語版

 

私は人から愛されたいが、愛するかどうかはその人が決めることであり、私がどうこうできるものではありません。私がどうこうできるものは私自身でしかないのです。その違いを本当の意味で理解するために、私はつとめて論理的でありたいと思います。

 

 

 

ついつい言い訳ばかりしてしまう自分を変えたい

なにか失敗した時に自分に言い訳を作ってしまうというのはよくあることです。しかし自分に言い訳を作って生きていくというのは、あまり推奨された習慣ではありません。なぜなら、問題の本質にたどり着けなかったり、気づいていても目を向けることができないからです。

 

「失敗は成功の元」と言いますが、言い訳ばかりして生きている人には、無縁の言葉です。問題の本当の原因と向き合わないと、成長につなげることが難しいのです。

 

私は昨日、仕事で一つのミスをしました。そしてやはり自分を正当化するための言い訳を一生懸命探したのです。普段何も考えず生きているくせにこういう時に限って頭を回転させるんです。良い言い訳が浮かぶたびに、心が落ち着くのを感じます。それはそうです。心のざわつきを抑えたくて言い訳を考えているのですから。

 

言い訳を考えている自分には、もちろん気づいていました。それがよくないことも。しかし、我慢ならないのです。他人のせいにしたり、システムのせいにしたりして、自分のせいである可能性から必死に目をそらしてしまうのです。挙句の果てに開き直ったり。

 

最新かつ優れた考え方を手に入れるには、今持っているものを手放さなくてはいけない、という話を聞いたことがあります。両手がたくさんの荷物で塞がっていたら、新しいものも良いものも手にすることはできない。要らないもの、抱えているもの、そういうものたちを捨てることで、新しいものを入れるスペースを作るのだ。

 

何かを捨てなくてはならないのだとしたら私は何を捨てればいいだろう。私の場合、プライドでしょうか。プライドや優越感みたいなものが邪魔で邪魔でしょうがないのです。それに浸っているときは気持ちがいいのですが、ふと我に返って自分には誇れる実績が何も無いことに落胆するのです。

 

言い訳をするのも、プライドが高いのも、自分を守るためです。人から嫌われたくない、人から褒められたい。感情を優先しすぎて、論理的に物事を判断できない。私を惹きつけるのは、人としてどう生きるかではなく、他人からどう見られているか、である。

 

何かを意識的に捨てるのではなく、そもそも捨てようと思って手放せるものではなく、感情的にならずに論理的に考える習慣を身につけることが、すなわちそれらを手放すことに直結しているのではないか。

承認欲求と自己肯定

「人からどう見られているか」

「自分はどう生きるか」

この2つは対極にある気がします。前者は承認欲求で、後者は自己肯定。

 

例えば車を運転中、ゆっくりと走る車の後ろについたとします。もう少し速く走ってくれないかな、と思ったとします。ここで前の車に接近して、プレスをかけるのは前者だと思うのです。顔も見えない誰かもわからない前方を走る運転手にプレッシャーを与えることで何かを感じさせたい。これは「承認欲求」だと感じます。他人の思考を自分に向かわせたい駄々っ子のようだと感じるのです。

 

しかし、相手は他人なのです。その人に対し平気で車を近づけて圧力をかけるというのは、なにか違う気がします。焦っている、急いでいるというのは自分の問題であって相手にはなんの関係もないことです。それを相手の事情も知らずに攻撃的な感情になるのは、自分勝手過ぎる気がします。

 

相手の気持ちをむりやりこちらに向かわせることと、自分の気持ちの中で自分の範囲内で物事を処理することが、対極にあるように感じたのです。

 

人から認められたいという自分の幼稚で未発達な精神が気に入らないのです。相手からどう思われてるか、どう思わせたいか。こんな思考が私を人生を通じて苦しめてきました。後者のように生きることができたらと何度となく思いました。

 

他人からどう思われようとへっちゃらだとかいうやせ我慢ではなく、本当に自分の中で納得して自分の思う生き方ができたら、どんなに素晴らしいことかと、思い巡らすのです。

 

家族からの愛情をどうにかして私に向かわせたかった幼児期の私がまだ私の中にはっきりと残っているのを感じ、しかし、その湧き上がってくる欲求があまりにも強すぎて、私は自分をコントロールできないのです。

 

ですから、自分を自分で認められる人に憧れます。他人からの評価に依存したくないのです。そういう生き方がいつかできるでしょうか。

五感では感じることができないものの話

私たちには五感というものが備わっています。この五感でもって世界を感じています。だから私たちはこの五感で感じることができるものが、この世の全てだとついつい感じてしまっています。

 

しかし、実は私たちが見たり触ったりと、感知することができる物質というのは、この宇宙の5パーセントしかないのだそうです。その他95パーセントを占めるのがダークマターと呼ばれる物質で、それらは正体不明であり、我々がどんなに神経を研ぎ澄ませようとも見ることも触れることもできないのだそうです。

 

つまり、ダークマターが私たちのいる空間にどれだけ溢れていようとも、私たちの五感では感じることは決してできないので、我々にとっては存在しないも同然なのです。

 

そんな話を聞くにあたり、私は五感に思いを馳せました。人間の五感では感じることのできない情報ってどんなものがあるのだろうか。もし感じることのできないものを感じることができたらどんな感じなのだろうか。耳でも目でも鼻でも舌でも手でも感じることのできない情報ってどんなものなのだろうか。

 

そしたら一つ、私は思い当たりました。魂って感じることができないよなあ、と。人の心ってまったくもって知りえない。いわゆるテレパシーという能力なんかが、その五感とは別の未知の感覚なのではないだろうか。

 

また欲深い話ではあるが、この世界で私一人、他人の心を感知することができたなら、どんな世界が待っているだろうか、などと考えます。知りたい情報以外にも知りたくない情報も入ってくるでしょうに、私はワクワクしてしまいます。人の秘密は蜜の味って本当でしょうか。人の頭の中が覗けたら楽しいに決まっている。これじゃ、どうしようもない助平野郎じゃないですか。下世話すぎます。

 

ただ、人の心とか魂がなんらかの信号を発信しているとして、なのに人間にはそれを感じる能力がないのだとしたら、と考えると、複雑な心境になります。そうであるから、この世界がなんとか周っているのでしょうけど、私には行き場のない気持ちがどんどん溜まっていきます。なんとか人の心を覗けないものか。

 

ダークマターを感じることができないのと同様に、人の心も見ることも触ることも出来ない。そこに確かにあるはずなのに手が届かない。なんと悔しいことか。どうすることもできないものをどうにかしたいと願うとき、人はファンタジーに走りますよね。過去に戻りたいとか、人の心が読みたいとか、魂だけを飛ばしたいとか。

 

ファンタジーはファンタジーですから、空想するのは楽しいですが、虚しいのです。何か願い事があるときは、それを叶える術があると一旦仮定して、結局お祈りせざるを得ないのです。今の私がまさにそれです。何か精神的なものにすがって生きるというのはそういうことなのかもしれません。