俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

新年の抱負:感情に流されず考える力をつける

明けましておめでとうございます。

 

新しい年を迎え、今年こそはしっかりやるぞ、と意気込むのは毎年のことです。私には完璧主義というあまりよろしくない性癖があります。私の完璧主義は、がっ!となってぽいっです。一気にやる気に火がついて完璧にこなそうと試みますが、ほんの小さなほころびを見つけた瞬間、気力を失い、すべてを放棄します。

 

衝動と論理的思考のバランスが取れていないのだと感じます。衝動というのは人間を動かすのに大きな力を発揮しますが、持続性があまりありません。論理的思考はその性質上、人間をこつこつ計画的に動かしてくれます。また衝動のような大きな反動は少ないと思います。論理的思考に裏付けされた自身の行動は自分を裏切ることが少ないのです。

 

私の場合、この衝動による行動が多いのです。完璧主義もその一つ。完璧になんかこなせるわけがないと、論理的に考えれば思いつくはずですが、衝動というのは要するに欲求からくるもので、聞き分けがないのです。欲望だとか欲求というのは捨て去ることはできません。常に理性との葛藤にあります。

 

感情的になりやすい私はまた、暴言をよく独り言ちます。「きもい」とか「しね」というのは私が何かを思い返した時に自分自身によく掛ける言葉です。その言葉は衝動的に出るものでまったく論理的ではないのです。感情的な言葉というのは、気持ちがいいです。欲望から来てるものなので、口から発すると快感があります。性的な快感と似ているのではないでしょうか。

 

こういう感情的な言葉ばかり発している人は口論ができません。いつもものごとを論理的に突き詰めて言動している人の足元におよびません。勝ち負けの話をするならば、考える人に勝てるわけがないのです。感情的な言葉を発して、なんでそんな悪意のこもったことを言うのか問われても、正当性がまったく保てません。

 

今年は感情にばかり流されず、まずその感情はなぜ起こったのか、本当にその感情は必要なのか、他に考え方はないのか、そういう考える力をつけたいです。

 

今年もよろしくお願いします。

 

 

ニーバーの祈りと変化への勇気

自己肯定感の低さは承認欲求の強さに表れます。

自分のことが嫌いな私は、私のことが一番かわいいのです。

自分のことを嫌っていると、その分周りに評価されたいと思うのは当たり前のことです。

そういう関係で、「自分が嫌い」と「自分が好き」は表裏一体なのです。

 

私はあるきっかけで「ニーバーの祈り」に出会いました。ここには自己肯定感の低い人が勘違いしていて、今一度確認しなければならないことが書いてあります。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。

変えるべきものを変える勇気を、

そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ニーバーの祈」(2023年12月20日(水)21:23 UTCの版)『ウィキペディア日本語版

 

私は人から愛されたいが、愛するかどうかはその人が決めることであり、私がどうこうできるものではありません。私がどうこうできるものは私自身でしかないのです。その違いを本当の意味で理解するために、私はつとめて論理的でありたいと思います。

 

 

 

ついつい言い訳ばかりしてしまう自分を変えたい

なにか失敗した時に自分に言い訳を作ってしまうというのはよくあることです。しかし自分に言い訳を作って生きていくというのは、あまり推奨された習慣ではありません。なぜなら、問題の本質にたどり着けなかったり、気づいていても目を向けることができないからです。

 

「失敗は成功の元」と言いますが、言い訳ばかりして生きている人には、無縁の言葉です。問題の本当の原因と向き合わないと、成長につなげることが難しいのです。

 

私は昨日、仕事で一つのミスをしました。そしてやはり自分を正当化するための言い訳を一生懸命探したのです。普段何も考えず生きているくせにこういう時に限って頭を回転させるんです。良い言い訳が浮かぶたびに、心が落ち着くのを感じます。それはそうです。心のざわつきを抑えたくて言い訳を考えているのですから。

 

言い訳を考えている自分には、もちろん気づいていました。それがよくないことも。しかし、我慢ならないのです。他人のせいにしたり、システムのせいにしたりして、自分のせいである可能性から必死に目をそらしてしまうのです。挙句の果てに開き直ったり。

 

最新かつ優れた考え方を手に入れるには、今持っているものを手放さなくてはいけない、という話を聞いたことがあります。両手がたくさんの荷物で塞がっていたら、新しいものも良いものも手にすることはできない。要らないもの、抱えているもの、そういうものたちを捨てることで、新しいものを入れるスペースを作るのだ。

 

何かを捨てなくてはならないのだとしたら私は何を捨てればいいだろう。私の場合、プライドでしょうか。プライドや優越感みたいなものが邪魔で邪魔でしょうがないのです。それに浸っているときは気持ちがいいのですが、ふと我に返って自分には誇れる実績が何も無いことに落胆するのです。

 

言い訳をするのも、プライドが高いのも、自分を守るためです。人から嫌われたくない、人から褒められたい。感情を優先しすぎて、論理的に物事を判断できない。私を惹きつけるのは、人としてどう生きるかではなく、他人からどう見られているか、である。

 

何かを意識的に捨てるのではなく、そもそも捨てようと思って手放せるものではなく、感情的にならずに論理的に考える習慣を身につけることが、すなわちそれらを手放すことに直結しているのではないか。

承認欲求と自己肯定

「人からどう見られているか」

「自分はどう生きるか」

この2つは対極にある気がします。前者は承認欲求で、後者は自己肯定。

 

例えば車を運転中、ゆっくりと走る車の後ろについたとします。もう少し速く走ってくれないかな、と思ったとします。ここで前の車に接近して、プレスをかけるのは前者だと思うのです。顔も見えない誰かもわからない前方を走る運転手にプレッシャーを与えることで何かを感じさせたい。これは「承認欲求」だと感じます。他人の思考を自分に向かわせたい駄々っ子のようだと感じるのです。

 

しかし、相手は他人なのです。その人に対し平気で車を近づけて圧力をかけるというのは、なにか違う気がします。焦っている、急いでいるというのは自分の問題であって相手にはなんの関係もないことです。それを相手の事情も知らずに攻撃的な感情になるのは、自分勝手過ぎる気がします。

 

相手の気持ちをむりやりこちらに向かわせることと、自分の気持ちの中で自分の範囲内で物事を処理することが、対極にあるように感じたのです。

 

人から認められたいという自分の幼稚で未発達な精神が気に入らないのです。相手からどう思われてるか、どう思わせたいか。こんな思考が私を人生を通じて苦しめてきました。後者のように生きることができたらと何度となく思いました。

 

他人からどう思われようとへっちゃらだとかいうやせ我慢ではなく、本当に自分の中で納得して自分の思う生き方ができたら、どんなに素晴らしいことかと、思い巡らすのです。

 

家族からの愛情をどうにかして私に向かわせたかった幼児期の私がまだ私の中にはっきりと残っているのを感じ、しかし、その湧き上がってくる欲求があまりにも強すぎて、私は自分をコントロールできないのです。

 

ですから、自分を自分で認められる人に憧れます。他人からの評価に依存したくないのです。そういう生き方がいつかできるでしょうか。

五感では感じることができないものの話

私たちには五感というものが備わっています。この五感でもって世界を感じています。だから私たちはこの五感で感じることができるものが、この世の全てだとついつい感じてしまっています。

 

しかし、実は私たちが見たり触ったりと、感知することができる物質というのは、この宇宙の5パーセントしかないのだそうです。その他95パーセントを占めるのがダークマターと呼ばれる物質で、それらは正体不明であり、我々がどんなに神経を研ぎ澄ませようとも見ることも触れることもできないのだそうです。

 

つまり、ダークマターが私たちのいる空間にどれだけ溢れていようとも、私たちの五感では感じることは決してできないので、我々にとっては存在しないも同然なのです。

 

そんな話を聞くにあたり、私は五感に思いを馳せました。人間の五感では感じることのできない情報ってどんなものがあるのだろうか。もし感じることのできないものを感じることができたらどんな感じなのだろうか。耳でも目でも鼻でも舌でも手でも感じることのできない情報ってどんなものなのだろうか。

 

そしたら一つ、私は思い当たりました。魂って感じることができないよなあ、と。人の心ってまったくもって知りえない。いわゆるテレパシーという能力なんかが、その五感とは別の未知の感覚なのではないだろうか。

 

また欲深い話ではあるが、この世界で私一人、他人の心を感知することができたなら、どんな世界が待っているだろうか、などと考えます。知りたい情報以外にも知りたくない情報も入ってくるでしょうに、私はワクワクしてしまいます。人の秘密は蜜の味って本当でしょうか。人の頭の中が覗けたら楽しいに決まっている。これじゃ、どうしようもない助平野郎じゃないですか。下世話すぎます。

 

ただ、人の心とか魂がなんらかの信号を発信しているとして、なのに人間にはそれを感じる能力がないのだとしたら、と考えると、複雑な心境になります。そうであるから、この世界がなんとか周っているのでしょうけど、私には行き場のない気持ちがどんどん溜まっていきます。なんとか人の心を覗けないものか。

 

ダークマターを感じることができないのと同様に、人の心も見ることも触ることも出来ない。そこに確かにあるはずなのに手が届かない。なんと悔しいことか。どうすることもできないものをどうにかしたいと願うとき、人はファンタジーに走りますよね。過去に戻りたいとか、人の心が読みたいとか、魂だけを飛ばしたいとか。

 

ファンタジーはファンタジーですから、空想するのは楽しいですが、虚しいのです。何か願い事があるときは、それを叶える術があると一旦仮定して、結局お祈りせざるを得ないのです。今の私がまさにそれです。何か精神的なものにすがって生きるというのはそういうことなのかもしれません。

 

 

ハンギョドンの人形

UFOキャッチャーをギャンブルと言っていいのか。UFOキャッチャーは子どものゲーム、ギャンブルっていうのは大人の遊戯、と私の中の誰かが言っているのですが。何が言いたいかというと、UFOキャッチャーをギャンブルとここではさせていただきたい、ということです。

 

そのUFOキャッチャーを私はしばらくやっていなかったのです。理由はとにかくお金がもったいないから。あの可愛らしい人形がディスプレイされている箱は、私のお金をどんどん吸い上げるのです。これまでけっこうな額をつっこんでしまっています。しかし、ごく手軽な金額で人形をゲットできた瞬間に脳内を駆ける快感は、ギャンブルのそれと同じだと、本能的にわかります。

 

景品など取るつもりがなくても、何が置いてあるのか見に行くだけと心に決めても、ゲームセンターに足を運んだら最後なんですね。そういうわけで私は昨夜ふらふらと性懲りもなくゲームセンターに赴いてしまいました。

 

そこにはハンギョドンの立派な人形が置いてありました。ハンギョドンというのはサンリオの人気キャラクターなんですが、私はすでに五体のハンギョドンを所有しているハンギョドンファンの一人なのです。捕りたい。とりあえず千円だけ。賭けてみるか。

 

結果的に私はそのハンギョドンを800円で捕りました。これは成功なのかどうか。成功です。なかなかの成績です。三桁で捕れたら、万々歳です。

 

これがUFOキャッチャーの怖さです。なんなんでしょうね。一度成功体験を積むと抜けられなくなるその思考回路。人間に備わったギャンブルに対する欲求。勝ったときに脳内で炸裂する快楽物質。人間の構造もそうですが、それらを刺激することで成り立っている商売。いい悪いではなく、不思議だなあ、うまくできているなあ、と思います。

 

でもそういうところに怖さを感じることができているので、そこは節度を持って楽しまなければなあと。それと本格的?ギャンブルにハマらないための社会勉強になっているとしたらそこは棚牡丹かなと前向きに捉えることもできます。

 

ハンギョドンがあるとついついやっちゃうんですが、それはなんかまた仕方ないなと割り切っています。だって欲しいんですから。

 

宙ぶらりん

過去とか思い出とか、楽しかったあの頃を割り切る。そういうことができたらいいのに。

 

やはり楽しかった。なのに道を外して今がある。ちょっと外れただけで分岐していく未来。確定していく過去。その過去に思いを馳せ、悔恨の思いを抱えて生きる。抱えきれず、変わりもしない過去をああでもないこうでもないとこねくり回す。なんの意味もないことなのに。

 

そしてまたあの楽しかった頃を呼び戻そうと何かに祈る。祈祷師ばりに祈りを捧げる。神も仏も見境もなく。おばけにだって祈る。

 

人間は寂しいから存在している。そんな話を聞いた。そうだよな、体があれば人と触れ合えるもんなあ。素晴らしいことだけど、私の人生は寂しかった。だからこそ、過去に執着している。現在を生きられない。昔から心ここにあらず、上の空。そういう生き方にこそ後悔が宿る。でも……。

 

わがままに生きることは私にはできない。またそれでもいいと受け入れることもできない。宙ぶらりんの工場労働者。毎日上の空で粉を混ぜている。なんでこんなことしてるんだろうと思うこともある。でも必要なことということもわかっている。

 

理想と現実がごちゃごちゃに混ざり合って煩わしい。でもその仕事が与えてくれた現在を、いろいろな人達に感謝しながら生きていきたい。