底の抜けたコップには何も溜まらない
私は去年の暮頃から、一つの取り組みを行っています。それは、「妄想から脱却し、今を生きる」というものです。
妄想は私にとって欲です。妄想欲とでも言いましょうか。脳が妄想を欲しているのです。空想の世界で自由に感情を吐き出し、怒りを発散したり、欲求を満たしたり、とても気持ちがいいのです。しかしまた同時に空虚な気持ちになります。
虚しい気持ちになるのは当たり前のことです。例えば、妄想の中で仕事のできる男になってみんなから頼られて称賛されたとして、現実のみすぼらしい自分は、何も変わらないからです。
妄想は底の抜けたコップに延々と水を注ぎ入れる作業と同じです。毎日毎日欲望のままに妄想しても、コップには何も溜まらないのです。それがきっと虚しさの所以なのでしょう。
今を生きる。現実を生きる。それは、小さくて、でも実のあるものをコツコツと積み上げていくことです。私は妄想欲に負けないように、現実と向き合い、確かなものを手に入れたいのです。
現実は妄想と違い、面白いことばかりではないでしょう。しかし、社会を確かな足取りで生きていくにはやはり現実を生きなければならないでしょう。
妄想からの脱却:現実を生きるための試み
去年、今を大切に生きたい、ということを記事にしました。
30代も終わりに差し掛かって今更、と思われるかもしれないですが、私は妄想中毒のようです。以前から、なんなら学生時分から集中力がないなあ、とは思っていました。今の会社に入って仕事をしていても、作業とは関係のない事柄を一生懸命考えていました。そのような状態を長らく放置していたわけです。
去年後半に「今を生きる」「今を味わう」ことの大切さに気付いたわけですが、ではどうするか、と考えていました。私はタバコを吸うときも、食事をするときも、何か作業する時も、基本的に上の空なのです。意識が今ここにないのです。それは「今を生きる」ことに反している、と気づきました。
妄想は私にとって非常に楽しいものです。そういう現実逃避が私の子供の頃からの精神的な救済だったのかもしれないです。妄想中毒と書きましたが、本当に中毒なんでしょう。なにか脳で興奮物質でも出てるのかもしれないです。意識してもやめられないのです。気づけば妄想しているのです。何かスマホ中毒と似ている気がしました。スマホが手から離れないのと同じように。
妄想中毒から解放されるために、どうしたらいいか。五感に意識を向ける、というのが一つの方法です。妄想と現実は対極にあります。妄想は非現実です。妄想ばかりしているというのは、現実を生きていないということです。空想の世界で楽しく生きるか、現実の世界で現実と向き合い、現実の幸せを手に入れるか。どちらをとるか。私はやはり現実の幸せが欲しいです。
今感じている、目に見えるもの、聞こえる音、匂い、味、感触や温度、それらは現実です。妄想に頭が浸っていると気づいたならば、その都度、五感に意識を向けることが現実に戻ってくる方法です。私は仕事中、基本的に考え事をしています。人間は不思議なもので、全く別のことを考えていても、作業ができてしまうのです。ただ、そういう生き方をしていた結果が、今の私の現状なのです。
今年、私がしたいことは、現実を生きるための妄想からの脱却です。作業中、あらぬ方向に意識が向いていると、割とすぐに気づけるようになりました。気づけたなら、その都度、意識を現実に戻さなければなりません。これがなかなか難しいのです。気づいたと思った瞬間には、もう妄想していたりもします。なかなか抜け出せないのです。
こういう試みが自分を変えてくれるかどうか、わかりません。ただ幸せになるために、欲しいものを手に入れるために、試行錯誤していきたいのです。この歳になってようやく気付くこと、というものもあります。遅いなあ、遅すぎる、と感じることもしばしばです。ただ諦めたくないのです。妄想よりも現実の方が楽しい。そうなれば、人生が変わる気がするのです。
煙草を吸いながら思う
深夜、ベランダに出て煙草を吸う。こんな肌寒くなったのに、まだ虫が鳴いているなあ、と思う。アパート近くを車の通り過ぎる音が聞こえる。名前も知らない誰かが運転している車。
誰かには違いないのだが、その誰かに想いを馳せることもできない。その誰かにもちゃんとした人生があって、両親がいて、その親にも両親がいて。時代を遡ってゆけば、全人類の共通の祖先にまで辿り着く。確実にいた人たち。確実にあった人生。それらすべてが今の世界を形作っていて、どれも不可欠であったことは言うに及ばない。
我々にとって長く感じる人類の歴史。しかし宇宙の膨大な歴史に比べれば、ほんの一瞬の歴史。我々がいるから認識される宇宙。我々は死んでしまえば滅んでしまえば途方もない時間から解放される。まるで今この瞬間が我々にとっての絶対であるかのようだが、宇宙にとっては水滴の波紋ほどの小さくて一瞬の出来事に過ぎない。時間を認識する我々からすれば宇宙は果てしなくゆっくりと動いているように見えるが、それは人類の感覚に過ぎない。宇宙は心臓の鼓動のように膨張と収縮を繰り返している。
どうして私たちは存在するのか。誰にもわからない。でも何かしらの意図は感じる。自然ではない、誰かによる意図。この世の正体など分かりゃしない。誰かの夢の中なのかもしれないし、コンピューターのシミュレーションの中なのかもしれない。
もし仮に自分が死んだら、次に生まれ変わるまでに何億年何兆年過ぎ去るだろうか。途方もない時間も認識できなければ無いに等しい。「今」には意味がない。宇宙が誕生した138億年前が始点だとして、この先も何億年何兆年と時は存在する。ただ、今私が存在するから「今」に意味があるように見えるだけだ。
広大な宇宙の中でミクロの点のようなちっぽけな星の中で、ほんの一瞬だけ存在する我々。そう考えたところでしっかり食欲もあるし、やりたいこと欲しいもの全部手に入れたい。この貪欲さに比べれば宇宙の方こそちっぽけになってしまう。この途方もない宇宙と比べたら塵のようにちっぽけな煩悩が、どうしても手放すことはできない。煙草もスマホもセックスも、貪れるだけ貪ろうとしている。
煙草を吸い終わり部屋に戻る。夜が明ければ、また仕事だ。一人の人間として、社会の歯車として、個人と全体の幸せのために、嫌でも働かなければならない。
「今を生きる」とは何か ~過去よりも未来よりも「今」が大切な理由~
「今を生きる」「今が大切」
多くの著名人が「今を生きよう」とか、「今を大切に生きましょう」などと「今」の大切さを説いている気がします。すいません。著名人と言って、特定の「誰が」というのは思い浮かびません。ただ、頻繁に「今」の大切さを耳にする、ということが言いたいのです。しかしながら、私はその意味を今一つ計りかねていました。「今」ってそんなに重要だろうか、と。
なぜなら私の頭の中は、過去と未来のことでいっぱいだからです。過去の記憶を掘り返しては、あの時、こう言っていればこうしていれば、こういう展開になって、こんないいことが待っていたはずなのに、と妄想します。過去の出来事をこねくり回して、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせることに私はすぐに熱中し始めます。そういうのを「後悔」というのでしょうか。それが無意識に勝手に頭の中で始まるのです。そういう状態になっていることに気づくこともないままひたすら没頭しているのです。また、未来のことも同様です。起きるかどうかもわからないことをすぐに妄想しはじめます。こうなったらどうしよう、も然り、こうなったらいいな、も然り。未来に対する「不安」や「希望」に心が囚われてしまいます。「今を生きる」のが怖いのです。過去未来を思っている時間に安心を覚えるのです。
いずれの場合も、心はここにはありません。「今」からは、遠くかけ離れたところに心があります。しかし、私は30年以上の間、毎日毎日延々とそういう状態を生きてきました。それは幼少期から、もうごく自然にそういう風に生きて、なにも疑問に感じず、むしろ私は人生をより良くするためにそういう思考を選択してきました。その結果どうなったか、というのは検証できない気がします。ただ現在の私はあまり幸せな状態とは言えないかもしれません。幼少期や学生時代、青年時代の大事な時期を失ったと感じているからです。
この間、YouTubeを見ているとナオキマンショーというチャンネルにネイチャージモンという方が出演していました。ダチョウ倶楽部の寺門ジモンさんです。この方の言っていたことが、「今」というものに関して「そういうことか」と妙に腑に落ちたのです。その動画の中で彼は「全力を使ってこの一瞬を生きるしかないんです。」「この今、やってることの積み重ねが未来になる。」「積み重なったのを振り返ってみると過去になっている。」とおっしゃっていました。
過去も未来も「今」の積み重ねでできている。過去を後悔しても未来を不安視しても何も変わらないし変えられない。意味がないし、時間の無駄である。過去も未来もどちらも「今」でできている、「今」が創っている。過去とか未来をより良くしたければ、「今」を大切に生きるしかないのだ。「今」にベストを尽くすべきであり、それがなりたい自分への最短距離である。
そういう今回の気づきを得て、「今を生きる」とか「今を大切に」とかそういう言葉の意味が少し理解できた気がします。どうしても過去とか未来が目の前に立ちふさがり、「今」を見えないようにしてしまいがちです。「今」よりも過去未来のほうが断然重要な気がしてしまいます。「今」をないがしろにしてしまいます。しかし、実は「今」しかないのです。過去未来は「今」をどう生きたかの結果でしかないのです。言葉でいうのは簡単で、本能で理解するのは中々難しいです。おそらく実践して経験しなければ、頭は理解しないと思います。私はなんとかして、「今を生きる」感覚を身に着けたいと思います。
比べることをやめて自分を見つめる
他人と自分を比べることに、私はどれだけの時間を費やしただろうか。あの人は私より劣っている、優れている。なんでもそうだ。勉強やスポーツもそうだし、容姿だってそうだし、幸せそうか不幸そうか、なんだって比べてきた。
それは、ある程度の成功と取り返しのつかない失敗を生んだ。高校までは勉強も部活も頑張る優等生だった。「いい」大学にも進学できた。私の言う成功はそこまでだ。失敗は私の一番やりたいことが人生の大事な時期にできなかったこと。結局、「比べる」という行為が目的、ないしゴールとなって、次がない。勝ったら終わり、勝てなければそれは、劣等感となって人生を苦しめる。
他人と比べることで、私は自尊心を失った。どうか誰にも嫌われませんように、どうか誰も私を虐げませんようにと、まるで方向性のない生き方をするしかなかった。安全な生き方をしようとしすぎた余り、社会へ出るきっかけを失った。勉強する目的もなければ、就きたい職業もない。それでも頑張れたのは、学内で上位10%にはいようという熱意があったから。部活を続けたのはやめたら負けだという意地があったから。やりたいことなんてそこにはなかったのに。大学進学後はもうグダグダだった。
あの人はどう思っているか、あの人は今、どんな人生か。極端な話をしてしまうと、そんなことはどうでもいい。自分がどうか、自分はどうしたいか、それが一番大事である。自分勝手に生きるべきとか、利己的に生きるべきという話ではない。自分のやりたいことをするのに、周りの目ばかり気にしていたら、何もできやしない。
他人と自分を比較する必要はない。私はあの人に比べ能力があるとかないとか。その思考は目的であり、結果でありゴールである。その先は無いように思われる。自分のためにやりたいことをするのに必要な思考ではない。自分の道を切り開くなら、自分を軸にすることだ。「今日、私はこれを頑張った、明日も頑張ろう」「今日はこれができた、とても満足」。他人は関係ないのだ。
未知の世界に想像力を膨らます
私が想像を掻き立てられるものの話をする。
例えば、とある1枚の写真。そこにはニッコリと微笑む少女が写っている。日付が正しければ1994年5月25日に撮られたものである。私が思いを巡らせるのは、その写真が撮られたその瞬間、私は一体どこで何をしていただろうか、ということである。確かにその時私はこの世に存在しどこかで何かをしていたはずだ。テレビを見ていたかもしれないし、友達と遊んでいたかもしれない。笑っていたか泣いていたか。あれこれと想像はできるが、雲を掴むような感覚に陥る。この少女がカメラの前で笑っていたその日その時の私を想像せずにはいられないが、特定することは到底できない。
あるいは私の吐き出した煙草の煙はどこまで飛んでいくだろうか、ということ。私の吐き出した煙を遠いどこかの誰が吸っているだろうと、想像する。きっとこの煙は拡散し、大気と混ざり、ごくごく微量に希釈され、誰かに届く。考えてみるだけでなんとも言えない気持ちになる。「クレオパトラのワイン」という話をラジオかなにかで聞いたことがある。大昔クレオパトラの飲んだワインの水分子が川を下り雲となり雨となり世界中に均等に拡散したとすると、我々がただいま飲もうとしているその水の中に、クレオパトラが飲んだワインの水分子が必ず含まれているという話だ。
先祖の話にしても、誰が誰と繋がってるかなんてわからない。たまたま通りかかった知らない人が実は割と近いところに共通の先祖を持ってたりするかもしれない。会社や学校の知り合いの中に、知らず知らずに親戚がいたりするかもしれないのだ。でもせいぜい曾祖父母くらいまでしか遡らない。仮に自分と血縁関係のある人を全てリストアップしてくれるAIなんかがあったとしたら、どんなに面白いだろうか。この人とこんなところで繋がってたのかと知ることができたらそれは面白いことだ。しかし、調べようも確かめようもない。想像することしかできない。
そして会社の床に落ちている髪の毛。あれも想像を掻き立てる。誰のものか調べようがないじゃないか。それはもはや誰の髪の毛でもないのだ。だけど確かに、ある誰かが落としたものなのである。じゃあ誰が落としたのか。想像は膨らむがわかりはしない。堂々巡りである。
そういう目に見えないもの、確かめようのないものを、私は想像せずにはいられない。目には見えないが確かに存在する。確実にあるのに、それがなんなのかはっきりとしない。想像は膨らむばかりでとらえ切れない。壁の向こう側に確実に人がいるのにその人が何をしているのかわからない。そんなもどかしさ、歯がゆさ。宇宙はいつ始まったのか。始まる前は何があったのか。宇宙人はいるのかいないのか。卵が先か鶏が先か。徳川埋蔵金はどこに眠っているのか。話が脱線しだしたが、解決できないことは想像するしかない。解決したければ、祈るしかないのだ。
欲深い人間の葛藤
欲しくても欲しくても手に入らないもの。
このまま一生手に入らないもの。
こんなにも幸せな人生だから、きっといつか手に入ると錯覚してしまうのだ。
お金がないとか容姿が足らないとか、人生にはどうにもならないことが多い。
人間は、というか私は、生かされていると最近つくづく思う。戦争だ、災害だ、と普通の生活を送れない人たちがいると、日々のネットの情報で知らされる。欲しいものが手に入らないどころか、ごく普通のごく一般的な生活がままなはない。一方私は、水道水がちゃんと家まで届く、電気が使える、お風呂に入ることが出来る。ここだけ考えても、その日常を送っているのではなく、送らさせてもらっている、と感じる。
私はじゃあ贅沢だ。生き物だから欲深くて当然なのかもしれない。あれが手に入ったら、次はこれ。手に入れたい。手に入らないことに煩悶する。どうすれば、欲を満たせるのか。欲を満たせない状態に苦しむ。どんな暮らしをしても満たせないものは満たせない。
あるユーチューバーが、要領の悪い人は「定数」を動かそうと頑張る、と紹介していた。「定数」とは過去や運命などの変えようにも変えられないもののこと。できる人は「変数」、変えられることをどう変えていくかを考えられる人だそう。
前回紹介した「ニーバーの祈り」に通じていると感じた。変えられないものを受け入れる冷静さ、変えられるものを変える勇気、それらを見分けることが出来る賢さを私にください、という言葉だ。ここでいう、「変えられないもの」こそ「定数」であり、「変えられるもの」こそ「変数」である。
私は過去を後悔することが、日課であり、趣味であり、人生そのものになっている。それは決して楽しくはない。しかしやめられない。楽しくもないそれをやめられず依存しているというのがどういう原理なのかは私にはわからない。でも、最近ようやく、後悔することが人生においてメリットがないということに気づき始めた。日々のちょっとした考え方、行動が、まわりまわって人生となっていく、という事実も含め、後悔する、という生活習慣をやめなくてはならない。損得勘定にはなるが、損を取ることはないだろう。
では、なぜ私はこの後悔を引きずらなければならないのか。なぜ手に入らなかったものに固執するのか。人間の欲深さは汚いイメージがあるが、そういうところなのだ。悪魔に唆されている、と昔の人が考えるのも頷ける。頭で理解していても、抗えない。論理では、抑えられない。
「じゃあこれからどうするか」、「どう変えていこうか」、という思考をすることが人生においてプラスになる、ということをやはり理解する必要があるのだ。私は、人の悪口や陰口を滅多やたらに言わない人を見ると、それがこの人にとってプラスになるということをどこで学んだんだろう、とつくづく考えさせられる。親が教えてくれたのか、過去に経験を積んだのか、それはわからないがいつも感心してしまう。こういう人は、何が得で何が損かを理解している。「理解する」には実際に行動してみて「あ、本当だった」という経験をしなくてはならない。では理解できるまでやはり辛抱しなくてはならないだろう。