俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

欲深い人間の葛藤

欲しくても欲しくても手に入らないもの。

このまま一生手に入らないもの。

こんなにも幸せな人生だから、きっといつか手に入ると錯覚してしまうのだ。

お金がないとか容姿が足らないとか、人生にはどうにもならないことが多い。

 

人間は、というか私は、生かされていると最近つくづく思う。戦争だ、災害だ、と普通の生活を送れない人たちがいると、日々のネットの情報で知らされる。欲しいものが手に入らないどころか、ごく普通のごく一般的な生活がままなはない。一方私は、水道水がちゃんと家まで届く、電気が使える、お風呂に入ることが出来る。ここだけ考えても、その日常を送っているのではなく、送らさせてもらっている、と感じる。

 

私はじゃあ贅沢だ。生き物だから欲深くて当然なのかもしれない。あれが手に入ったら、次はこれ。手に入れたい。手に入らないことに煩悶する。どうすれば、欲を満たせるのか。欲を満たせない状態に苦しむ。どんな暮らしをしても満たせないものは満たせない。

 

あるユーチューバーが、要領の悪い人は「定数」を動かそうと頑張る、と紹介していた。「定数」とは過去や運命などの変えようにも変えられないもののこと。できる人は「変数」、変えられることをどう変えていくかを考えられる人だそう。

 

前回紹介した「ニーバーの祈り」に通じていると感じた。変えられないものを受け入れる冷静さ、変えられるものを変える勇気、それらを見分けることが出来る賢さを私にください、という言葉だ。ここでいう、「変えられないもの」こそ「定数」であり、「変えられるもの」こそ「変数」である。

 

私は過去を後悔することが、日課であり、趣味であり、人生そのものになっている。それは決して楽しくはない。しかしやめられない。楽しくもないそれをやめられず依存しているというのがどういう原理なのかは私にはわからない。でも、最近ようやく、後悔することが人生においてメリットがないということに気づき始めた。日々のちょっとした考え方、行動が、まわりまわって人生となっていく、という事実も含め、後悔する、という生活習慣をやめなくてはならない。損得勘定にはなるが、損を取ることはないだろう。

 

では、なぜ私はこの後悔を引きずらなければならないのか。なぜ手に入らなかったものに固執するのか。人間の欲深さは汚いイメージがあるが、そういうところなのだ。悪魔に唆されている、と昔の人が考えるのも頷ける。頭で理解していても、抗えない。論理では、抑えられない。

 

「じゃあこれからどうするか」、「どう変えていこうか」、という思考をすることが人生においてプラスになる、ということをやはり理解する必要があるのだ。私は、人の悪口や陰口を滅多やたらに言わない人を見ると、それがこの人にとってプラスになるということをどこで学んだんだろう、とつくづく考えさせられる。親が教えてくれたのか、過去に経験を積んだのか、それはわからないがいつも感心してしまう。こういう人は、何が得で何が損かを理解している。「理解する」には実際に行動してみて「あ、本当だった」という経験をしなくてはならない。では理解できるまでやはり辛抱しなくてはならないだろう。