俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

パワーストーンについて

7月7日、七夕の日に自身4本目のパワーストーンブレスレットを作りに出かけました。

 

パワーストーンと言うと怪しいと思う人がけっこういるみたいです。私の印象ですが、雑誌の通販広告のパワーストーンは怪しく感じます。学生の頃に見た金運アップの見出しや、それを購入した人の体験談みたいのは怪しさ満点で、私はまさに食わず嫌いをしていたのです。おそらくですがそういう広告を見ると、大半の人は騙されないぞと警戒してしまうのかもしれません。パワーストーンという響きには、商売っ気が出てしまっているそういう広告のイメージがどうしても付きまとうのではないでしょうか。

 

そういう私は怪しくないのか、というとなかなか怪しいのです。誰かに購入を勧めたり、石の効果を吹聴するわけではないですが、自分の中で確かに石の効果を期待し、人生を良好にするために身に着けているわけです。あくまでアクセサリとして身に着けている風を装っているわけですが、その実、私は密かな願いを胸に秘めてパワーストーンを身に着けているのです。

 

なにも恥ずかしがる必要などないのですが、やはり心に秘めている部分というのは隠しておきたいものです。人によってはやはり、怪しいと思う人がいるからです。パワーストーンブレスレットのいいところは、ファッションの一部として身に着けられる点だと思います。パワーストーンはいわばお守りなのです。アクセサリでありお守りなのです。アクセサリは表向き、実際はお守り、こんな感じでしょうか。

 

パワーストーンと言ってしまうと、どうしても怪しさが出てしまいますが、天然石と言えば、人によっては怪しいと感じてしまうニュアンスが隠せます。自然の石なのにこんなカラフルできらびやかな色をしているなんて、とそんな魅力まで引き出せる呼び方ですよね。

 

パワーストーンを身に着けている、と話す際はここまで長々と言い訳がましい説明を入れなくてはならないところが、こそこそしているようで相変わらず自分が情けなくなります。今回の購入でブレスレットは4本目になります。1本目を作るきっかけをくれた人物からは、あまり入れ込みすぎるなよと注意をされます。

 

でもやっていることの本質は神社やパワースポットにお参りに行くのと、変わりません。幽霊はこの世に存在するのではないか、みたいな心理と同じです。半信半疑でも頼らざるを得ないのです。何かいいことがあると、「あ、これのおかげだ」と思うのです。よくないことがあれば「ああ、これをしなかったからだ」と思います。そういう心の動きは健全であれば人間だれしもが持っているものだと思います。

 

今後なにかいいことがあったならば、それはきっとパワーストーンのおかげなのです。

夜は短い

夜は思ったより短い。

 

夜になったらあれやってこれやってと考えているのに、さあ始めようと思ったときにはもう時間がない。

 

なにせ夜は寝ないことには朝を迎えられないのだから。

 

そうは言いつつ、私は今夜は寝ないと決め込んだ。

 

もうすぐ早出出勤しなくてはいけない。

 

五月に風邪をひいてからは体調がすぐれない。

 

たばこなんぞを限度を知らずに吸っているからだろう。

 

喉の痛み、咳、痰が、治らない。

 

そんなことよりも、私は2年以上の後悔を引きずっている。

 

失敗に失敗を重ね、もう取り返しはつかない。

 

最近身の回りで起こる変なこと、不思議なこと、それの真偽は定かではないけれど、それらを勝手に解釈し、私にとっての吉報と捉える。

 

この世にそういう不思議な現象があるのだとしたら、それは私へのメッセージだろう。まるで映画のインターステラーみたいで素敵じゃないか。

 

最近、家の中に現れる虫を誰かの生まれ変わりなんじゃないかと思い、殺生するのに戸惑うことがある。

 

そういう何かスピリチュアルな考え方が、いよいよ私の生活に入り込んできた。

 

この後悔の私へのダメージが、私をそういうものに惹きつける。

 

居ても立っても居られない、そういう自分を押さえつけるのに必死だ。

 

押さえつけなくてもどうにもならないのだが。

 

などと愚痴をつぶやいている間に、朝になってしまう。

後悔の正体

私の前に100万円の当たるくじ引きがあります。

 

一回1万円で引くことができます。

 

1万円を払いくじを引きます。

 

自信はなくとも、何か確信をもってこれだというくじを一枚引きました。

 

くじを開くとそれははずれでした。賭けた1万円は消えてなくなりました。

 

そして後悔をするわけです。

 

あの時引いたくじは自信がなかった、あれではないくじを引けばよかった。あそこにちょこっと出ていたくじ、あれが怪しかったので引けばよかった。もっと下のほうから引けばよかった。そうすれば今私は100万円を手にしているのだ。

 

この「過去を変えられるのではないか」という幻想が後悔の正体です。

 

あの時こうしていればこうなっていたという幻想と戦うことが後悔なのです。

 

そんな未来はこの宇宙が誕生した時から用意されてなどいないのです。こうなることは宇宙誕生の瞬間から決まっていたのです。

 

でも人間は不思議なもので過去に干渉できる気がしてしまうのです。期待してしまうのです。SFやファンタジー映画の中だったら簡単なのですが。

 

もっとやりようがあったというのは幻想ですし、そんなことわかりきっているわけですが、どうしても過去に戻ってやり直したいと切に願うわけです。なんならやり直せる気すら起こってくるのです。苦しくなってきます。

 

そんなときは、「人生なんてそんなもんだよ」とつぶやくほかないのです。

何も変わらないわたし

あっ、と思ったときには幸せって終わってるんでしょう。

 

こういう生き方をしてしまってるんだから、仕方ないのです。

 

この間、事故を起こしたのです。あやうく死にかけました。あっ、と言う間の出来事でした。

 

そういうことなんです。

 

寂しいのはなぜか。こればかりはどうにも説明がつきません。

 

心の中で、どうにかなると思ってました。どうにもならないのに、なぜかどうにかなるような気持ちだったのです。

 

この気持ちはいつまで続くのでしょうか。一生でしょうか。私はそれに耐えるしかないのです。

 

こうやって書くことで、わずかばかり発散できるでしょうか。ほんのわずか。

 

そうやって幸せから目を逸らしていれば、その幸せもどこかへ消えてしまいそうです。

得られなかったからと言って

私は12年前の冬、精神科入院病棟にいました。大学に行けなくなり、実家で寝て起きての生活をしている中での、精神の不調でした。大変怖い思いをしました。

 

私の人生にあの出来事、この出来事は必要だったのだろうか。というのは最近の私が過去を振り返りよく考えることです。当然若い頃に起きたこの精神の不調も、あれさえなければと思い悩む日があります。

 

若い人たちを見ると、羨ましくなります。自分にもこういう青春が送れたはずなのに、と。それを自分の偏った価値観で、何もない空っぽの青春にしてしまった。人生は取り返しが効ない。取り返してやる。と心は燃えようとも、うまく行かない。

 

あの入院がなければ今の私がいないのは確かです。あの入院がなければ、人生が明るかったかというと定かではありません。答えは永遠に出ません。

 

あの頃に比べたら、私は幸せなのです。でもあの頃に幸せを得られなかったことが、私を責め立てます。もっと、もっと、これよりももっと、と要求してきます。身を滅ぼしかねない欲求が私を怯えさせます。

 

父親はどうして、私を押さえつけたのか。今父親がいなくなり、変わってゆく私をどう思っているか。どうか、今私が自分の幸せのために生きることを見守っていてほしいものです。

シミュレーション仮説は私を救うか

シミュレーション仮説というものがあります。この世界はコンピューターの制御するシミュレーションの中の世界だとする説です。

 

最近ユーチューブを見ていてもこれ関連の動画が沢山あります。イーロン・マスクが支持しているとか、誰彼もこの説を推している、などなどなかなか賑わっています。

 

この世界はシミュレーションではない、という証明が誰にもできないのです。シミュレーションである可能性が往々にしてあるのです。

 

さて、この世界はシミュレーションだと思いますか?正直この世界がリアルだろうと、シミュレーションだろうと、やることは変わらないですよね。シミュレーションだから犯罪を犯していいわけじゃないし、仕事を辞めて働かなくてもいいわけではない。犯罪を犯せば犯した分、不安な毎日を過ごさなければならないですし、仕事を辞めればひもじい思いをするわけです。シミュレーションだとしても痛い思いはするのです。

 

死後はどうでしょうか。この世には地獄とか天国などという概念がありますが、もしシミュレーションだった場合、死んだ途端、VRゴーグルをつけた状態で目覚めたりするのでしょうか。

 

ただこの世界がシミュレーションだったとしたら、心の持ちようが変わってくると思います。私の不安も悪事も全部まぼろしなのです。現実ではないのです。リアル過ぎて、痛み全部を体感していますが、全部現実じゃないのだとしたら。あの悪夢から覚めた時のような安堵感が味わえるのだとしたら。この世界から目覚めやしない、でも、目覚める時が来るのだとしたら。

 

要するに、私はシミュレーション仮説に救いを求めているのです。この社会不安から抜け出すために何か糸口を探しているのですが、この世界があまりにもリアル過ぎて、どうにもシミュレーションには思えません。

 

繰り返しになりますが、この世界がどっちであろうと、関係ないのです。でもあの人の痛みも私の悪事も全部現実ではないという可能性、そこに潜むロマンが私を、この世界はシミュレーションであるという仮説に惹きつけるのです。

 

目の前に広がるこのリアルな世界が全部シミュレーションであったなら。

ふと思うこと

シュレーディンガーの猫という思考実験があります。私には、その実験の意味を理解する能力はありません。

 

ただ感じたことがあります。私が観測できないもの、観測しえないものというのは、私にとっては起きていない、存在しないのと変わらないのではないかということです。

 

そういうふうに考えると、この世界がまるで私を中心にして存在していると、そう思わされるのです。

 

時々思うのです。自我があることは証明できるけど他我があることは証明できない。私はこの世界で確かに意識をもって存在している。でも他人はどうだろうと疑心暗鬼になるんです。

 

だからどうと言うわけではないです。というよりどうすることもできないし、なんでもないのです。