俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

今思うこと

こんばんは

なんにもなかった私はいつか何かを成し遂げようと思っていました。

そうして私の今があるのですが、それを思っていただけで、結局なんにもないことに変わりはなかったのです。

だから毎日を充実させることって重要ですよね。何もない毎日からは何も生まれないんだと、結果論ですがそう思います。

高校の時、野球をやりながら毎日勉強も必死でやっていました。それは私にとっていい結果を招きました。相乗効果というのか、どちらかが欠けていたら、そのいい結果は生まれなかった思うのです。

だから、私の二十代の堕落した日々に抱いた野望は、実を結ばなかったのだとそう思います。

充実した日々を送れないメンタリティがあったり、そういう生活を送っている人を蔑んでいたのですが、今思えば取り返せない虚しい過去になってしまいました。

何はともあれ、行動するのが大事なんだと気づきました。

自分を説得すること

こんばんは

自分で自分を説得するのって難しくないですか。

時々思うのですが、自分を自分の言葉で説得させたいなあ、などと考えるのですが、なかなかうまくいかないです。

人に相談する時って、新しい提案が欲しかったり、後押して欲しかったり、自分を説得して欲しい時です。

そうやって人から説得されると、ぱあっと目の前が明るくなったり、よし!と前を向くことができたり。

でも自分で自分を説得させようとして出てきた言葉って全然響かないんです。

なんでかなぁって考えたんですけど、結局自分でひねり出した言葉であっても、それは既知の情報にすぎないんだと思います。

だから、その人の持っているその人だけの価値観から出された説得っていうのが心に響くんだと思います。

でも価値観が違いすぎると受け入れられなかったりもするんですが。

そういう他力本願なところが、私のだめなところなのです。自分を説得しなくとも正しくあれよ、と説得したいところです。

煮えきらない

こんばんは

私は最近煮えきらない思いを抱えている。

こんな最高の環境にいて、煮えきらないのはもう甘えでしかないという事実もちゃんと私の傍にいてひしひしと感じている。

いや、この煮えきらないという感情がそもそも私の甘えと切っても切れないのではないか。

ところで何がそんなに煮えきらないのか。

私と誕生日が一日しか変わらない同い年の上司。その彼のそばで働いていて感じる無力感。

彼はばりばり。いわば働いている。みんなが彼を頼る。そして頼りになる。

一方、私は働いているふりをしている。頼りになることをアピールする。そして頼りにならない。

どうして、こうなるのか。こうなったのか。

社会人になってずっと感じる。なぜ仕事ができないのか。

やる気のなさ。考えようとしない、工夫しようとしない私の態度。緊張感の欠落。自信のなさ。

こうして落ちてきた。落ちていないように取り繕っているが、落ちている。取り返しがつかないほど。

人生のレールから外れたのが大学四年の時。そこから軌道を修整できず、ずるずると12年間ここまで来た。逃げてばかりじゃなかったはずだ。でもやはり工夫が足りなかった。工夫しようという頑張りが足りなかった。

あまり見ないようにしているが、時々ちらっとこれからのことも考える。

なるようになる。これが救いの言葉にも、堕落していてもいいという甘えの言葉にも、どちらにも聞こえる。

欲張ることと感謝すること

こんばんは

アンパンマンのオープニング曲の歌詞に「何が君の幸せ、何をして喜ぶ」というのがあります。

これを思い出すたびに、自分の人生がいかに空虚なものであるかと感じずにはいられない日々があったわけです。

あの頃と今の自分は決定的に違います。今の私は満たされています。器の大きさがあの頃と一緒ならですが。

私は欲深いです。器が満たされると、その器が大きくなってしまうのです。満たしても満たしてもいっぱいにはなりません。

私は人より多くの間違いをしてきました。その真偽はともかく、そういう自覚を持って生きてきました。改善できる部分について、改善する努力をしたり、結局改善できなかったり、自然に改善されたり。そうやって、最近やっと人並みに幸せを感じられるようになってきたと、実感しています。

そうやって今偉そうなことを言えるのは、周りの人達や環境のおかげなのですが、それを私が本当にそう思っているかどうかは、私にもわかりません。

そして、満たしても満たしてもなどと、わがままなことを言って悦に入っていると結局今の幸せすらも、逃げていってしまうのではないかと予感しています。

それは、私が今恐れる一番のことであり、その満たされない器に関しては、ひとまず置いておくとして、やはり周りの人達や環境に今一度感謝しなければいけないと思います。

ただ言い訳すると図に乗っているだけなんです。

後悔について

 こんばんは

 

 「あの時ああしていればよかった」という後悔は人生の中でたくさんありますよね。

 

 人は皆それぞれ後悔してもしきれないような出来事を抱えながら生きていくわけですが、それだって大なり小なりあるわけです。

 

 「まあ仕方ない」で済むものだったり、「今からでも何とかしよう」とあくせくしたり、「もうどうにもならない」と暗い気持ちに落ち込んだり。

 

 私は今、とある後悔で苦しんでいます。それがその当時は何ともなかったのですが、ボディブローのようにじわじわと効いてきて、1年半ほど経って今頃猛烈に苦しくなってきました。

 

 その原因は、あの当時の私と今の私の考え方が、ガラッと変わったことだと思います。あの当時、それでいいと思っていた物が、考え方が変わって、それじゃ許せなくなってきたんです。

 

 あの時には戻れないですもんね。人生に後悔は付き物ですもんね。この先どうするかを考えるしかないですよね。

 

 ポジティブに捉えるならば、私の人生はいい方向に向かっていると考えることもできます。以前の調子の人生ならば、こんな後悔すら生まれなかった。好転してきた最近の人生の中で生まれた後悔ならば、好転してきたその人生の方を祝福してあげればいい。

 

 そう言い聞かせて、なんとかなるような後悔ではないですが。

 

 

吸っても吸っても

こんばんは

「幸せ」とは何なのかと考えます。欲を満たすことなのでしょうか。

私は喫煙者です。
タバコを吸うと欲が満たされます。
その瞬間こそ幸せです。

しかしまた、より上等なタバコを吸いたいと考えます。
欲が欲を呼びます。
際限のない欲です。
沼にはまって出られないのです。

欲を満たすことが必ずしも幸せとは限りません。
満たしても満たしても。
私はそれでも幸せになるためにタバコを吸います。

欲深い人間はどこかでつまずくと自分を戒めながらもですが。

間違った野球の教えから学んだこと

 こんばんは

 

 私は小学4年から高校3年にかけて野球をやっていました。本格的な野球から離れて大人になりようやく学んだことがあります。

 

 野球人生をスタートさせてはじめてバッティングの基礎として習った事は、スイングは上から下に、いわゆるダウンスイングで打ちなさい、というものでした。昭和生まれの人たちはみんなそう教わったはずです。しかし、現代の野球において、それは間違いであると言われることが多くなりました。

 

 また、こうも教わりました。ゴロを捕球する時は、右ひざを地面に着けなさい。この教えを最後まで信奉した私は結局いつまでたっても守備が上手くなりませんでした。

 

 私に野球を教えてくれた人を批判しているのではありません。私の言いたいことは間違った方法や考え方を鵜呑みにしたりするのは良くないということです。その方法は本当に自分に合っているだろうか、他の方法はないだろうか、と精査することが必要なのだと感じました。

 

 私は、人や本、インターネットなどから得た情報を、すぐに信用してしまいます。問題なのはその教えを検証もせずに鵜呑みにしてしまうことです。そして間違った方法を間違っていると気づくことができないのです。私は他力本願の馬鹿正直なので、自分で工夫したりするよりも、教えられたことを鵜呑みにする方がものすごく楽なのです。

 

 これからも何かを勉強したり、身に着けようとする機会があると思います。方法は一つではありません。間違った情報を信じないこと、情報を自分で検証すること、これらに気をつけたいと思いました。