俺は足踏み

もう少し頑張りたい三十代の日記です

読書に対する私の固定観念

今週のお題「読書の秋」

 

 私は読書が苦手です。

 読書に憧れて10数年、未だに私の生活に読書が根付きません。読書が嫌いではないと思います。でも、どこか、読書イコール勉強になっているのかもしれません。読書が好きじゃないならしなければいい、という意見もあると思います。私が読書をするうえで抱いているいくつかの固定観念が邪魔をしていると思います。

 

固定観念① 読書は短時間ではできない

 読書をするのには最低30分以上の時間がないといけない気がします。ある程度まとまった時間が無いとできないと思っています。片手間に数行もしくは数ページだけ読むというのは読書をする人には当たり前なのでしょうか。それともやはりある程度のまとまった文章を読まないと内容が理解できないものでしょうか。例えば睡眠30分前であるならば、私の場合、本には手が伸びません。つまり短い時間しか取れない場合、読書という選択にはならないのです。

 

固定観念② 手に取った小説は最後まで読まなければいけない

 読書が苦手な私は、自分に合わない本と出会った時は自分のせいだと考えます。自分の読解力が足りないせいだと思うのです。だから意味が分からなくてつまらなくても意地を通して無理やり最後まで読むか、でなければ読むのを諦めます。読書やーめた、となってしまいます。

 

固定観念③ 本のタイトルで選びがち

 まず食わず嫌いが激しい。読みもしないでつまらないと決めつける。タイトルから一体何がわかるというのか。タイトルだけじゃなく、表紙だったり作家の名前からもその本の良し悪しを決めつける。結局、本に対するそういう姿勢が読書から私を遠ざけてしまう。読んでみると意外と面白くて驚くことも多々あります。

 

固定観念④ 賞をとった作品が面白い

 例えば芥川賞作品は面白い、なんの賞もとっていない作品は面白くない。そういう決めつけです。読書の入り口としてはそれでもいいとは思っています。○○賞受賞の小説という見出しで本を選ぶことは悪い事ではないと思います。しかし、やはりそれが自分に合わなかったとき、読書に嫌気がさします。

 

固定観念⑤ 難しい小説を読めなければいけない

 難しい小説に時々出会います。有名な小説なのに、私には理解できない。これで何度、読書というものに挫折したか。そういう小説を無理して読まなければいいのに、どこか自分が許せないのです。自分に合った読みやすくて面白い本がたくさんあるのに、難しい小説に挑んでしまいます。読めない自分が悔しくて、結局読書から気持ちが離れて行ってしまいます。

 

 

 読書をしていると、読んでよかったと思える小説に出会います。私の少ない読書量でそうなのだから、それは氷山の一角?なのでしょう。人生で読んでおいた方がいい小説がたくさんあるはずなのにそれに出会えないのは、もったいない気がしてうずうずします。固定観念が私の読書の邪魔をしているなら、殻を破るべきだと思います。読書は楽しいので、もっとのめり込みたいのですが、おそらくは自分が勝手に作り上げた常識にとらわれて自分で読書をつまらなくしているのだと思います。

 

 読書が好きな方はどう思うでしょうか。